「不破不立」
2006/07/27(金)
私たちの世代で中国に関わっている者で、好き嫌いは別にして、この言葉を知らぬ人はいるまい。
特に私は中国語に志した動機とも相まって、この言葉には格別の思い入れがあるし、今も、この言葉は私の生き方の指針の一つでもある。
ところが、時代は変わり、今や、中国を専門にしている人にとってすら、この言葉は「死語」となっているようだ。
今日の東京での会合で、「不~不~」の例文を出し合って、この言葉を私が取り上げたとき、同席していた若い先生方は誰もこの言葉を知らなかったのである。
もちろん、このことで「今の若い人は」と言うつもりは毛頭ないし、「文革」時代の言葉を知らなくとも別に構わないのである。ただ、これが現在の日本の「状況」と実は深く関わっているように私には思えてならないのだ。
話を私の勤務校に移すが、来年度の中文専修希望者はついに30人を割り込んだそうな。昨年すでに40を割り込んでいたが、今年は更に悲劇的な状況である。
この国の政治・外交の問題とも関連しているが、要するに、今のこの国の若者はアジアには興味を示していないということの現れでもあるだろう。
アジアの諸国は以前に増して「近くて遠い国」になりつつある。
中国語には決して興味がないわけではない。それが証拠に一般外国語としての中国語の履修者数はそれほど落ち込んではいない。その背景には、昔の3つの「支那語の不幸」(吉川幸次郎)が依然として存在しているだろうが、それでも外国語として中国語を学ぶ意欲はないわけではないのだ。
では、一体、どこに原因があるのか。案外、これは「逆転した二つの中国認識」があるのかも知れないと思っている。戦後の「支那語の不幸」とは、「同文同種」「優しい外国語」「漢文訓読」であり、「二つの中国認識」とは「現代中国への蔑視と、古代中国への憧憬」であるが、後者が今はひょっとして逆転しているのではないかと思えるのである。そして、それは、今の日本の高校教育における「漢文教育」の欠如と 関わりがあるのかも知れない。
いずれにせよ、これが「改革」がもたらした「後果」であり、今こそ何かの手をうたなければ、この国の伝統は滅びてしまうだろう。と同時に、一方では「不破不立」である。思い切って何かを「壊し」、何かを「立てる」のだ。その時、伝統は復活し、「止揚」につながるのではないかと思うのである。