生活の柄ー「タカダワタル的」

きのう/きょう/あした


2004/06/04(金)

今の季節には不釣り合いな曲ではある。

京都の秋の夕暮れは
コートなしでは寒いくらいで
丘の上の下宿屋は
いつもふるえていました・・・

この絶妙な出だしで始まる加川良の「下宿屋」を聴いたのはもう30年余りも前のことである。 ただ、そこに歌われている人が高田渡だということを知ったのは、それから隨分後のことである。

・・・・ 彼はいつも誰かと
そして 何かを 待っていた様子で
ガラス戸がふるえるだけでも
「ハイ」って応えていました
そのハギレのいい言葉は あの部屋の中に
いつまでも残っていたし
暗やみで 何かを待ち続けていた姿に
彼の唄を見たんです
・・・・・・・・
湯飲み茶碗に お湯をいっぱい入れてくれて
「そこの角砂糖でもかじったら」って
言ってくれました
・・・・・・・・
乾ききったギターの音が
彼の生活で そして
湿気の中に ただ一つ
ラーメンの香ばしさが
唄ってたみたいです
ブショウヒゲの中から
ため息が少し聞こえたんですが
僕にはそれが唄のように 聞こえたんです
・・・・・・
何がいいとか 悪いとか
そんなことじゃないんです
たぶん僕は 死ぬまで彼に
なりきれないでしょうから
ただ その歯がゆさの中で
僕は信じるんです
唄わないことが 一番いいんだと
言える彼を

加川良の歌の中で僕はこの歌(歌というのか、むしろギターに合わせての詩の朗読である)が一番好きだし、彼の曲想が高田渡の影響をもろに受けていることも知っている。ただ、高田渡については、「自衛隊に入ろう」や「生活の柄」以外にはあまり聴いたことはないままでいた。
ただ、先日偶然NHKで高田渡の特集を見て、さらに、5/27の新聞で高田渡について書かれていたのを読み、これは一度ライブを見に行かなくてはと思い立った。
今夜その大阪中央公会堂でのライブを見に行ってきた。
今回のライブは明日から大阪で公開されるドキュメント映画「タカダワタル的」を記念してのものだったが、高田渡の他、「プカプカ」の大塚まさじ、そして「五つの赤い風船」の西岡たかしも駆けつけた。映画を撮ったのが27歳の若い女性。この組み合わせも面白い。
それにしても、高田渡の独特の世界である。あんな人生を誰もが望んでいるが、誰も真似の出来ない生き方。まさに「タカダワタル的」生き様である。今日は寝なかったが、コンサートでも途中でよく寝てしまうことは有名である。片意地張らず、今も酒を友として、奧さんと二間のアパート暮らし。
「生活の柄」は沖縄生まれの放浪の詩人「山之口獏」の詩である。

歩き疲れては 夜空と陸との
隙間にもぐり込んで
草に埋もれては寝たのです
処構わず寝たのです
・・・・・・

高田渡の生き方は、この「生活の柄」そのものなのである。
吉田拓郎とか井上陽水、あるいは荒井由美なんかのコンサートとは全く異質な「世界」を今日は久しぶりに見たという気がした。それは、今の時代に忘れられていて、しかも、もの凄く大切な「世界」であるように僕には思えた。
毎日の新聞に引かれていた「歌わなくてもいいのが一番いいんだ。それが究極だと思う。大詩人も書いているうちは摸索している。本当に自分を見つけた人は何も書かなくなる」という高田渡の言葉をもう少しかみしめてみたいと思っている。