年頭のご挨拶
吹田市教育委員会委員長
内田慶市
明けましておめでとうございます。
また新しい年を迎えました。
昨年もこの国では長崎の事件に始まり、児童虐待や誘拐殺人、加えて、水害、台風、地震と、これでもか、これでもかと悲しい事件が相次ぎました。世界に目を向けても、イラクのますますの混迷をその典型として、人と人がいがみ合い、憎しみ合い、殺し合うといった情況が続いています。「力こそ正義」がまかり通っています。
毎日の新聞を開くことをためらってしまうほどの、「どうしようもない情況」を呈しているわけですが、このような中で犠牲になるのは、いつも、弱い子供や女性、老人であることには変わりないのでした。
「教育」という漢字はどちらも「子供」の「子」をベースに作られています。つまり、「教育」とは、そもそもの初めから「子供」を中心に考えるべきものだということです。「子供を救う」こと、「子供を守る」こと、「子供が夢を持てる社会を作る」ことは教育の根本であり、大人の責務であるはずです。ところが、現実はどうでしょうか。子供達を取り卷く環境はますます悪くなっているように思います。そして、そんな情況において、子供達は「夢」を持てなくなっているのです。
ところで、最近読んだ本の中で、その生き方や表現の素晴らしさを再確認したことがあります。大正時代末期に26歳の若さでこの世を去った、金子みすずという人の歌とその生き様です。
私が両手をひろげても お空はちっとも飛べないが
飛べる小鳥は 私のように
地面(じべた)を速くは走れない
私が身体をゆすっても きれいな音は出ないけれど
あの鳴る鈴は 私のように
たくさんな唄は 知らないよ
鈴と、小鳥と、それから私
みんなちがって、みんないい
人はみな、その顔立ちも違いますし、その生い立ちも異なります。自分と同じ人間は誰一人としてこの世には存在しないものです。そして、どの人も、尊い「一つの命」を持っています。
金子みすずのこの歌の最後の部分、つまり「みんなちがって、みんないい」という言葉は、まさに、人に対する限りない「優しさ」と、「命の尊さ」、「いつくしみ」を表現したものだと私は思っています。 今、この世の中で起こっている事柄の多くは、「相手を認めようとせず、自分だけが正しく、自分こそが正義である」という思い上がりから生まれているように思われてなりません。
「人はみな違うもの」「考え方も生き方も違うもの」だからこそ、その「違い」を先ず認め合った上で、「みんな素晴らしいもの」と、お互いを尊重し合うことこそ大切ではないでしょうか。「みんなちがって、みんないい」のです。
また、金子みすずが26歳で自らの命を絶った理由が、実は、別れた夫から愛する3歳の我が子を守るためだったということも心に留めておいていいことかも知れません。前夫に娘を渡せばどんな育て方をされるかわからない、その子を守るために、自らの命をかけたのです。これが母親の愛であり、親の姿ではないでしょうか。命がけで子供を守ること、これは大人のつとめであり、教育の本質であると私は考えています。
1900年代の初め、中国の文豪、魯迅は「子供を救え」を合い言葉としました。「人が人を食う時代」にあって、その未来への希望を「まだ人を食ってはいない」子供達に託したのです。
その頃から100年近くになりますが、人の世は、それほど変わっていないのかも知れません。そして、どんな時代にあっても、将来を担うのは子供達なのです。
そんな子供達が夢を持てるような社会を作るために、私たち大人は今何をなすべきか、そのことを、新しい年を迎えた本日、もう一度考えてみたいものだと思っています。
今年こそ良い年でありますように。