[『東方』No.254(2002.4) 書評 ]  内田慶市著『近代における東西言語文化接触の研究』関西大学出版部

新たな言語文化接触研究

佐藤 晴彦(神戸市外国語大学)

 本書は大きく二つに分かれている。中国近代における文化論と言語論である。
  著者はまず言語を研究するにあたって、その基づく言語観が重要だと主張し、自身は「言語は音楽や絵画などと同じく人間の表現の一つである」という言語観に立つと明言する。こういう言語観に立った場合、ある言語を他の言語に変換する「翻訳」という営為は単なる「語彙の置き換え」ではなく、その言語の背景にある文化そのものが問題となり、「文化移入」「文化受容」の態度、方法の問題であると主張する。そこで注目されるのが十六世紀後半から起こり始めた東西の文化接触――マテオリッチを先駆けとする宣教師たちの来華による「西学東漸」という文化現象である。
  宣教師たちが中国にもたらしたものといえば、ただちに思い起こされるのは「バイブル」とヨーロッパの近代科学文明であろう。しかしそれと同時に忘れてならないものが「イソップ物語」であると著者は主張する。バイブルにせよ、イソップにせよ、中国人にそれを伝達するには当然そこに「翻訳」という営為が必要になる。さて翻訳となるとそこには当然「翻訳観」が問題となる。著者は言う。「『パン』に対して彼らは何故『麺包』を使わず『餅』を使ったのか。『ワイン』に対して『葡萄酒』でなくて何故『酒』ですませたか。そして『God』は『神』か『上帝』かで何故あのような大論争が必要であったか。これらは、ひとえに『翻訳観』の問題である。」(まえがき)
  そうした中でもイソップの中国語訳というのは極めて興味深い内容を含んでいるとし、マテオリッチの『畸人十篇』、パントーニャの『七克』、トリゴーの『況義』、ミルンの『察世俗毎月統記傳』などに見られるイソップ物語のそれぞれの特徴を探求し、さらに後世への影響が最も大きく、且つ中国語に訳されたイソップ物語のうちの、決定版ともいうべきロバート・トームの『意拾喩言』へと探求の矛先が向けられていく。そのトームの『意拾喩言』では、わたしたちになじみ深い「昔々あるところに」という表現にたいし、「盤古初、山海経載、大禹時、神農間、虞舜間、峨嵋山下……」の如く中国式の人名や地名がふんだんに使われていることを指摘する。かと思えば、「ヘラクレス」は「阿弥陀仏」として、「ビーナス」は「嫦娥」として登場するなど、まさに「トームによってイソップは『中国の衣裳をその身に纏って』中国に現れた」(四七頁)のである。なお『意拾喩言』の前に『意拾秘伝』という書が存在したという指摘は著者が初めてであり、注目してよい。
  そしてこの中国化の傾向はイソップのみにとどまらず、絵画にも見られるとし、その例として『天主降生出像経解』『誦念珠規程』『進呈書蔵』に収められた「聖像画」の変化を指摘する。これらに見られる絵とそのもととなったNadalの原画と比較すれば、著者がいう如くその中国化は一目瞭然である(一五八頁)。つまり「このような、言語における中国への同化と同様のことが、絵画や彫刻においても確かに存在したのである」(一五九頁)。
  ここで評者が問題としたいのは、宣教師たちは何故そこまで中国化しなければならなかったのだろうか、これがもし日本が相手であれば宣教師たちはそこまで日本化したであろうかということである。例えば相手が日本であったなら、ヘラクレスが須佐之男命や日本武尊に変わったであろうか。もしそうでないとすればその原因は何だったのであろうか、そんな疑問がわいてくる。著者が指摘されたイソップの中国化そのものも現象として確かに興味は惹かれる。しかしそこから一歩すすんでこういう疑問に答えることがより掘り下げられた文化論にならないか、もしその原因が中国語と日本語という言語の違いにあるとすれば、著者が追求しているテーマそのものとまさにピッタリの問題だと思うのだが如何であろうか。
  さて文化論でみせた著者の言語観は、言語論にはいるといよいよその真価を発揮する。
  今日中国語の文法を語る際、伝統的に「実詞」「虚詞」の二種に分類されることが多いが、果たしてこの分類は何時ごろから行われるようになったのであろうか。著者はこうした問題も含め、一体古代の中国人が言語をどのように捕らえてきたのであろうかということに大きな関心をよせる。それはちょうど時枝誠記が言語過程説を打ち出すにあたり、古代日本人が日本語をどのように捕らえてきたかということから出発し彼の言語過程説にたどりついたことを髣髴とさせる問題意識である。そこから著者は「『墨子』『荀子』の時代よりすでに、中国人の言語意識の中には、『概念を表すことば(「名」)』と『判断を表すことば(「辞」)』という二つの大きな類別の意識があり……後者に属するものに対して、『辞』或いは『詞』ということばを用いて説明してきた」(一七四頁)という。そしてこの二つの語と同じような類に属すものを説明するのに「助」ということばが使われ、そこからわれわれが今日よく使う「語助」「助詞」「助字」が生まれたのであり、「語助」は後漢の鄭玄が、「助詞」は顔之推が、「助字」は柳宗元が使い始めたという(一七五頁)。「虚実」が現れる前にこうした下準備があり、「虚実」の概念成立に大きく関わったのは南宋周弼の『三体詩』であるという。
  『三体詩』は詩を二一種の表現スタイルに分類しているが、その中に「四実」「四虚」など「実」「虚」という語を使った説明がなされており、結局その「虚」とは「感情を表現したもの」つまり「主体的表現」であり、「実」とは「景物や事実を表現したもの」つまり「客体的表現」を指しており、こうした表現における「虚実」の分類が、言語の「虚実」の分類に影響を与えたと指摘する。さらにヨーロッパ人が中国語の文法書を書いたとき「活字」「死字」という概念が使われたのだが、その発想そのものは既に古代中国人の発想に根ざしているという指摘も極めて示唆的であるが、あまりにも専門的すぎるので割愛する。
  具体的な語彙を扱ったところも様々な興味ある事実が指摘されていく。たとえば商務印書館が一八九九年から一九四六年の間に出版した漢英、英漢辞典のリストが二一六~七頁に挙げられ、その具体的語彙五〇個近くが年代順に一覧表で挙げられているが(二二四~六頁)、ある訳語が定着していく姿を想像することができ、この表を見ているだけでも楽しいものがある。そんな中でも著者は興味ある事実を指摘する。それは今日わたしたちが中国語で「自転車」という場合、ただちに「自行車」を思い浮かべるであろうが、商務印書館の英華字典では「脚踏車」「自由車」はあるが、「自行車」はないという。ただし「自行車」という語そのものは存在した。それは「自動車」という意味だったとし、その証拠として『新製諸器図説』掲載の「自行車」の絵を掲載している。とすると「自転車」という意味の「自行車」が定着するのは、極めて新しいということになる。
  さらに「黒茶」から「紅茶」への変化の指摘も興味がそそられる。たしかに英語では「Black tea」「Green tea」であるから「黒茶」「緑茶」の方が理に適っている。しかし現代語では「紅茶」と言い「黒茶」とは言わない。そこで著者はこの謎を追って探求を続ける。その結果「緑茶」はすでにモリソンの辞典(一八一五~二三)に見えるが、「紅茶」は「一八六九年のエドキンスまでは見られず、それまでは『武夷茶』『黒茶』あるいは製品名で呼ばれていたことがわかる。……一九〇〇年に入るまでは……あくまでも『限られた』範囲で使用された言葉であった」と指摘する(二五五頁)。「紅茶」を巡る著者の探求は英華字典にとどまらず、さらに新聞、雑誌、英語学習書にまで広がっていく……。
  言語論でもその他言及すべきことは多いが紙幅の都合ですべて割愛する。ただその内でも敢えてただ一つ挙げるとすれば、南京官話研究に関する提言である。これまでの研究方法を反省して「南京官話の語彙・語法の特徴はこれだ」という真正面からの方法を提唱し(三三九頁)、それには南京官話の「漢訳聖書」が有用であるという指摘は傾聴すべきであろう。
  本書を一読してよくも一〇年くらいでこれまで纏め上げられたものだと感心する。ともかく著者が収集した資料の数だけでも圧倒されてしまう。世に「足で書く」という言葉があるが、まさにこの言葉がぴったりという書である。著者の内田氏は八七年から八八年にかけて上海の復旦大学へ、九八年から九九年にかけてはハーバード大学へそれぞれ在外研究に行っている。各在外研究を終えて帰国されると、きまって氏の研究室は新たな資料が文字通り「うずたかく」積まれていく。中国から帰国した時は商務印書館出版の漢英、英漢辞典類が、アメリカから帰国した時はハーバード大学所蔵のものを中心としたヨーロッパ文献の数々が。その数量たるや並大抵のものではない(その間の事情は同氏の『ハーバード電脳日記』〔同学社〕に詳しい)。評者も資料収集については人後におちないと内心自負していたが、氏の姿を見ていると「甘拝下風」(恐れ入りました)である。ただ惜しいのは誤植が少し多すぎるという点。これについてはすでに氏のホームページ(http://www.pp.iij4u.or.jp/~
keiuchid/)にも正誤表があるが、あれだけではすまない。
  むろんこれだけの仕事であるから、一人ですべてをやれるわけではない。またある領域では手をつかたばかりという印象も否めないところもある。本書の一擲がこの領域に大きな波紋を起こし、さらに多くの、特に若い研究者が氏の開拓された後を是非とも受け継いでほしいものと切に思う。そのためには氏は苦労して収拾してきた資料ではあるが、惜しげもなく提供してくれるであろう。内田氏とはそういう人物なのである。
  最後に一つ素朴な疑問を提示しておきたい。氏の言語観からすれば、一つの文化と別の文化が接触するといういわゆる異文化接触が引き起こしうる現象を分析することに当然関心がいくであろうし、またそういう問題を分析するのに威力を発揮するであろう。例えば元朝の所謂「漢児言語」や「蒙文直訳体」という異文化接触によってもたらされた言語現象を研究することなど。しかし一つの文化、言語を歴史的に研究する場合、氏のような言語観に立ってなされる研究とそういう言語観に立たないでなされる研究とは、結論が異なってくるのであろうか、という疑問である。例えば、氏の言語観に基づいて、元曲、『水滸伝』『儒林外史』『紅楼夢』を研究するのと、評者のように明確な言語観をもたないままで研究しているのでは、結論が異なるのであろうか。もし異なるとすれば、評者がこれまでやってきたこと或いは今やっていることは何なのであうか。この疑問は内田氏に投げかけたものの、どうやら跳ね返って自分の喉元につきささってくる疑問でもあるらしい。