ものごとの本質は単純なものー西安の日本人留学生事件に思うこと
2003/11/14(金)
「犯罪というものもほかの芸術上の仕事と変りがありません。つまり、その完成されたすがたはどんなに複雑であろうと、その中心は単純だというね。」(チェスタトーン「奇妙な足音」)
名探偵デュパンやブラウン神父のこのような発言をまつまでもなく、「きわめて単純」であることが、かえって人を迷わせるということはよくあることである。
つまり、ことの本質は単純なのに、それをあれこれと問題をリンクさせて、複雜化していく。しかも、「ない頭」でやるから、一層、錯綜し收拾がつかなくなる。こういう現実に私も何度も出くわしている。
日本人留学生が、自分自身の価値観、文化観で、全く悪気はなく、「受け」をねらい、あるいはユーモアでやったことが、実は相手方にとっては不愉快であったという、ただそれだけのこと。これが今回の西安での事件の本質である。それ以上でも以下でもない。
ところが、それを発端にして現地ではデモや排斥運動が起こり、それに対して、日本人側も、単純な事件を、じゃあ、日本での中国人留学生の犯罪はどうかとか、日本のODAをもらっておきながら・・とかなっていく。
一言、「異文化理解の不足」「申し訳ない」「すいません」で済むところが、それも言えないような情況に陥り、更に、問題はエスカレートしてしまう。
これは日本の中国侵略や南京虐殺事件でも同じこと。 ことは、数の問題とか、ナショナリズムの問題にすり替えてはならないのである。 このようなことの本質のすり替えが、事件の解決を遅らせ、果ては解決が困難な情況に追い込んでしまうことを心すべきなのである。 あくまでも「現実」「事実」を見ることだ。そこを出発点とすべきなのだ。
確かに「異文化理解」というのは、言葉で言うほど簡単ではない。今回のようなことは、いつでも、どこでも、誰でも起こす可能性がある。日本人だけでなく、中国人も、アメリカ人も、どの国の人であろうともである。異文化理解の基礎は言語の習得にあるが、言語の背景には、その民族の思惟方法、歴史、文化が存在する。すなわち「言語はその民族の思惟方法、文化の反映」なのであり、外国語を学ぶというのは、言語の背景にあるものも含めて学ぶということである。語彙や語法をマスターしただけでは外国語を学んだということにはならないのである。異文化理解とは、相手方の「ものの見方・考え方」に身を置くということ、相手と自分の違いを認識することなのである。
「I don’t think so」はいつも「私はそう思わない」ではない。ある場合は「そんな?」「え?」「まさか?」ともなる。「郵便局はいつまで開いてますか?」を中国語で言えば「郵便局はいつ閉まりますか?」となったりもする。中国語の「記住!」は日本語ならば「忘れないで!」となったりもするのである。
日本の学生が中国に行った時、向こうの幼稚園児は、学生に対して「おじさん」「おばさん」と呼びかけるだろう。それは中国では「輩数(世代)」を重んじ、若い学生を「叔叔」「阿姨」と呼ぶことが、自分より一世代上の人として見なすことで敬意表現となるからだ。でも、日本人の若者、特に女性は「おばさん」と呼ばれることに抵抗を感ずるはずである。日本での「おばはん」には中国のような意味での尊敬の概念は含まれないからである。
異文化理解の難しさの一例であるが、今回の問題は、これに尽きるだろう。 そして、間違えたり、他人に不愉快な思いをさせた場合は、素直に「謝る」べきなのである。その上で、主張すべきは主張すればいいのであり、その逆であってはならないと思うのである。