「閉じるな」
2005/02/18(金)
先日、本職外の仕事で山口県の萩と仙崎に視察旅行に出かけてきた。
主な訪問先は、萩では「松陰読本」や「松陰のことばの朗唱」をその教育目標の中心に掲げる明倫小学校、仙崎では「みすず教育」で有名な仙崎小学校である。
「万卷の書を読むにあらざるよりは、いずくんぞ千秋の人たるをえん」
「今日よりぞ幼心を打ち捨てて、人と成りにし道を踏めかし」
といった松陰のことばを、1年生から暗誦するのである。
意味は分からずともよい、意味はそのうち後から付いてくるはずである。
仙崎では校長と話をしていると、そこに3人の児童が入ってきて、みすずと仙崎の関係や、みすずの詩の朗読をしてくれた。
その中の一人は、「大漁」を朗読してくれたが、さらに付け加えて、「私がこの詩が好きなのは、魚にも命があり、この世に生きているものには全て命があることをこの詩は教えてくれるから」と言うのだ。「みすず教育」は、「みすずの心」は確実に仙崎の子供達の心に根付いていることを教えてくれた。それは次のような詩からも明かであると思った。
ぎおんまつりのおどりこは
きれいにかみをゆいました
白くてきれいなおしろいを
お顔やお手てにぬりました
ぎおんまつりのおどりこは
おきものきせてもらいます
だらりと長いおびをしめ
ちょっと苦しいまいこさん
ぎおんまつりのおどりこは
みんながひっぱる山車にのり
かわいいおどりをおどります
ピーヒャラ ピーヒャラ ピーヒャララ
ふえやたいこの音もする
ぎおんまつりのおどりこは
山車にゆられてゆめの中
かわいいおどりをおどります
これは今年度の山口県の「みすず作品コンクール」で最優秀賞に選ばれた小学3年の作品である。
これはまさに「みすず」そのものではないか。
「教育」とは、かくほどに「すごい」営みであることを痛感させられた。
ところで、この二つの小学校にはもう一つ共通することがある。
それは、どちらの小学校にも門扉がないことである。
門は立ってはいるが、学校の内と外を隔てるものは何もない。
昔の学校はどこもそうだったはずである。
折りも折り、寝屋川ではまたまた小学校での殺傷事件が起こっていた。
そして、またも叫ばれるのが、不審者を校内に入れないように、門を閉じ、警報ベルを設置し、防犯訓練を行う等々である。
しかしながら、それらがいずれも「対症療法」に過ぎず、問題の根本的解決にはつながらないことを教育行政に携わる人や、世の大人達は知るべきなのだと思う。
問題の本質はそんなところにはないはずである。
明倫小学校や仙崎小学校の事例は私たちに「何か」を教えてくれているように私には思えるのである。