拓郎コンサート in つま恋
2005/09/05(月)
今年もまた行ってきました。
吉田拓郎コンサート in つま恋です。
昨年もつま恋を含めて、大阪、東京のコンサートに行ったが、今年も、つま恋を皮切りに京都、東京に行くつもり。
昨年は癌からの帰還で、「もつかな」と少々、はらはらどきどきだったが、今年は声も出ていたし、調子はよさそう。
それにしても、拓郎ももう還暦を迎えるのだが、確かに、昔みたいにツッパリはなくなった。それを変節というか、成長というのか人それぞれだろうが、「素直」になったことは確かである。でも、そこにはやはり無理があろそう。
昔のままとはいかないが、それでも、変わらぬものもあっていいだろう。
久しぶりに、虹の魚を聴いたが、あれはいい。あれを歌うところに拓郎のこだわりがあるのだ。
ラストが「落陽」というのも、なかなか気の利いた演出。以前はなかなかあの歌は歌わなかったのに。
来年はつま恋の野外ステージでかぐや姫と「朝までコンサート」をやるという。75年のつま恋以来である。
それまでこちらも体力を温存しなくては。
ところで、今、東京に出張中だが、ホテルのテレビで都はるみの新曲「枯れ木灘ー残照」を初めて聴いた。
中上健二の小説をモチーフに、道浦母都子さんが作詞したもの。作曲は弦哲也。
本来は先だっての東京での道浦母都子全歌集刊行記念会で発表の予定だったのが、少し遅れたもの。
道浦さんの詞はなかなかのもの。以前の「邪宗門」に勝るとも劣らない。問題は曲である。
邪宗門もそうなのだが、この枯れ木灘はもっと「売れない」曲になりそうだ。
売れなくても名曲はあるのだが、この曲は、なぜか心に残るフレーズがないのだ。
僕の音楽性のなさかも知れないが、一度聴いただけでは全く響いてこないのだ。
それは邪宗門の時にも感じたのだが、作為的過ぎるのだ。作為があってもいいのだが、曲の進行に無理があるように思われてならない。
きっと詞がすごすぎるからだろうと思う。
このことを今度弦さんに直接言ってみたいと思っているが、残念ながら9日の会合にはヨーロッパ出張で出席できない。
そのうち機会を見つけて聞いてみたいと思っている。