「こころとことば」「1たす1は2にならない」

きのう/きょう/あした


2006/10/05(木)

先日、出講している大学の学生から「先生、『こころとことば』を買いました。明石書店から復刻されたんですね。ものすごく面白いです。でも、これとか時枝の『国語学原論』などを読んでいると、言語学では神様みたいなソシュールが批判されていて、何がなんだか分からなくなってきました」と言われた。
それに対しては「いや、それでいいんですよ。色んな考え方があっていいわけで、最終的には自分で考えて判断すれば。大事なのは、権威や通説を鵜呑みにしないことだから」と答えておいた。
三浦さんの「こころとことば」が復刻されることは聞いていたが、すでに出ていたことを知り早速買いに行こうとおもっていたら、偶然にも昨日、三浦さんの奥さんからその2冊の本が送られてきていた。
手紙も添えられていて、そこには次のようなことが書かれていた。

今年は三浦が亡くなってから、27日は17年目を迎えます。
30年前に若い人向けに書いた本が復刊され、30年ぶりに今の若い人たちとの出会いができたことをお知らせします。
今の若い人たちが手にとってくれて役だってくれるとうれしいのですが

といった内容だが、本当にそう思う。
すでに、その本を手にした若い人も実際にいてくれる。学歴もなく、「独学」で独自の弁証法理論や言語学を確立させ、常に権威に盲従することなく、そのために、党からも除名された三浦さんの「生き方」を今の若い人たちにも是非知って欲しいと思う。
この「こころとことば」は三浦さんが、かつて「中学生新聞」に連載したものであるが、僕は今でもこれをすぐに見れるところに置いている。
亡くなられてもう17年になったのだ。三浦さんと最後にお会いしたのは、結婚して間もなくの頃だったように思う。東北かどこかに旅行した帰りに妻と熱海の病院にお見舞いに行ったのである。確か、東北土産の「人形倒し(?)」を持参したはずである。別れに握手した時の大きな手の温かさと力強さが今も思い出される。
葬儀の時の吉本隆明さんの「お別れ」の言葉も忘れられない。

「あなたはある文章で<学歴>と<学問歴>とは、まるで違うと言っておられますが、あなたの生涯は、その言葉通り、<学歴>がなくても輝かしい<学問歴>がありうることを、身をもって示されたものでした。・・・
最後に三浦さん。あなたと反対に<学歴>はあっても<学問歴>などまったくない怠惰なわたしにもひと言言わせて下さい。あなたの死と自叙伝は、まだまだ早過ぎて、とても残念であります。あなたが亡くなられたあとも、この世界一般について、わたしたちは泣きたいほどの難問をかかえながら、まだしばらくは独力で歩みつづけなければならないからです・・」

そうなのです。どうしようもない今の状況。過去の歴史事実すら変えようとする今の状況。こんな状況を三浦さんだったら、どうするのか。
それは、三浦さんに尋ねるのでなく、自分に向かって尋ね続けていかねばならないのだろう。