教育再生(長文)
2007/02/03(土)
いじめやそれに伴う子供たちの相次ぐ自殺、あるいは児童虐待といったこの国の「子供をめぐる痛ましい現実」に迫られて、ようやく重い腰を上げ、社会全体で「教育」を見直そうとする気運が高まってきている。このことはよいことだと思う。
しかしながら、その中心を担っている教育再生会議や文科省が今回第一次報告としてまとめた内容については、にわかにはその全てを首肯しがたい部分を含んでいるように思われる。
「今こそ社会総がかりで教育を再生しなければなりません」その言やよし。
しかしながら、この国の教育がこのような状況に陥ったその根本原因を深く問いただすことをせずに、いわゆる「対症療法」で乗り切ろうとしているところに問題があると私は考えている。
いじめや校内暴力に対しては、「暴力などの反社会的行動を繰り返す子供に対する毅然たる指導を」と述べ、その具体的な方法として、「出席停止」「体罰の範囲等の見直し」などを挙げている。つまり「口で言って分からなければ、力で押さえ込む」やり方である。彼らがなぜそのような行動を取るのか、そこが解明されない限り根本的な解決にはならないはずなのに、「力には力を」「暴力には暴力を」なのだ。それは、原因を解明できない大人の責任回避と言ってもいいだろう。
「あいつはうざい→やっつけろ」といういじめの構図は、実は大人社会の「あいつは言うことを聞かない→やっつけろ」「あいつは敵だ→殺せ」と同じである。それはまた、「強いもの=正義」の論理そのものでもある。暴力が生み出すものは暴力でしかないことは、この地球上で起っている「戦争」が証明している。「毅然たる指導」「厳しく対処する」ことと「暴力」に拠るということとは本来異質のものである。
少人数指導や習熟度別指導の拡充、学校選択制の導入にしても、その背後にあるものは、あくまでも「学力向上」という至上命令でしかないように思えてならない。なぜ少人数教育や習熟度別指導が必要なのか、それらの功罪はどこにあるのかといった原則的な議論が抜け落ちている。
いずれにせよ、この報告を貫く論理は、2点に集約されるように私は考えている。
一つは、「強者の論理」、もう一つは「あれかこれか」の論理である。
両者はもちろん関連し合うものであるが、前者は、別の言い方をすれば、「強いものが正義」=世界のアメリカ化=競争原理の行き着く先である。
そもそも、会議のメンバーがいわゆる「勝ち組」によって構成されているのだから、結論が自ずとそこに向かうのは予想されることではあるが、「出席停止」「体罰の範囲等の見直し」は「力対力」の構図そのものである。彼らからすれば、「ワーキングプア」などは「頑張らないもの」の代表でしかないのかも知れない。「強いものが勝つ」という発想であり、その典型が「飛び級」であり、「バウチャー制度」であるだろう。
後者について言えば、たとえば、「ゆとり教育」がダメなら「詰め込み教育」、「画一的教育」に対しては「個性を重んじた教育」=「習熟度別指導」=「学校選択制」、「平等・平均」に対しては「競争」を、「自由・放任」には「規律・厳罰」をというように、「あれがダメならこれ」「あれかこれか」の二者択一的な考え方である。
確かに、「学力低下」の原因の一つには「ゆとり教育」があるだろう。時間数が少なくなるのだから、それはある意味では当然の結果である。しかしながら、「ゆとり教育」が本来目指したものは一体何だったのか。「総合的学習」というのは何だったのか。そこから議論して、総括すべきなのに、「学力」に限定して「ゆとり教育」を全面否定するのだ。
これに対して、私はとりわけ「教育」においては、「あれかこれか」ではなくて「あれもこれも」という考え方をすべきだと思っている。
画一的な教育と個性尊重の教育はそれぞれが排他的な関係にあるのではない。どちらの部分も必要なのだ。
何人も平等に教育を受けられる権利が認められるし、生徒は平等に扱われなければならない。しかしながら、努力をしてもしなくても評価が平等であれば、やる気は失せてくる。そこでは「競争」も必要不可欠なものとなってくるはずである。他と競い合うことは決して否定されるものではなく、競い合いによってお互いが共に成長するものである。「競争」が「悪」なのではなく、競争の結果ばかりを重んじ、勝者だけを讃えることが「悪」なのだ。
「自由」には当然「責任」や「義務」がつきものであるし、「自由」は「規律」の中にこそあるべきものである。
報告で否定されているものと、肯定されているものは、相対立する概念ではあるが、それは「あれかこれか」の関係ではなく、「あれもこれも」の関係としてとらえることが重要だと私は考えるものである。
今回の報告では「教育委員会制度」についても言及されている。
「「事なかれ主義」とも言われる学校や教育委員会の責任体制のあいまいさ」と痛烈に批判し、「教育委員会の在り方そのものを抜本的に問い直す」と唱っているが、この批判に対して、この国の全ての教育委員が自らの職務について真摯に問い直す必要があると思う。「自分は教育委員として何をやってきたのか」「教育委員とは一体何なのか」と。
報告で指摘されるまでもなく、教育委員が「名誉職」として「地方の名士」に成り下がり、事務局が提案してきたものをそのまま追認するだけ機関になってしまっていることは否定しがたい事実であるかも知れない。「教育委員(会)制度の形骸化」であるが、もし、「いや、少なくとも私の市や町ではそうでない」というのであれば、教育委員はこの批判に対して「怒りの声」を発すべきである。
私は教育委員(会)制度の根本は「レイマンコントロール」にあると考えている。教育や行政の専門家ではないが、それぞれの分野で一定程度の識見を有するレイマンが大所高所から基本方針を決定するという仕組みである。それは、委員会内部に属すると同時に、一方では委員会外部に属するものでもある。だからこそ、その立場は「中立」を保てるのであり、任命者である首長からも、それを承認する議会からも、さらには、文科省からも相対的に独立した機関として存在し得るのであり、一種のチェック機関としても機能するのだと考えている。
このような重大な使命をおびた教育委員は、この国の教育に責任を持つべきだし、時に応じて進退をかけても発言しなければならないのだ。今はまさの「その時」である。再生会議や文科省の通達待ちでなく、自らが主体的に改革する意思を示すべき時であると私は思っている。
この時を失して沈黙すれば、残された道は「教育委員会の解体」しかないだろう。全国の教育委員はこのことを心すべきである。
国の根幹をなすものは「教育」である。そして、その「教育」の原点は子供にある。国の未来と希望はその子供たちに託されている。
「教育」という漢字の成り立ち(=子供とのコミュニケーションをはかりながら、子供を育てていく)そのものが、それを示している。
しかしながら、今この国の現状はどうなのか。
将来を担う子供たちが夢や希望をもてる「愛すべき国」の「体」を成しているだろうか。「美しい国」の姿を見せているだろうか。
来る日も来る日も、親が子供を殺し、大人たちは裏金や、粉飾決算、「やらせ」、保険金殺人、官製談合・・・・このようなニュースばかりがメディアをにぎわしている。
そんな大人たちの社会を子供たちが信じられるはずはない。
子供は大人の背中を見て育つものであり、子供社会は大人社会を映す鏡である。子供の処分を言う前に大人が範を示すべきであり、子供の教育を語る前に、大人の教育再生こそが必要なのだ。規律の重要性を言う以前に、せめて「己の欲せざるところ人に施すなかれ」(孔子)を教えるべきであり、その前提としての「人はみな違ってみんないい」(金子みすず)を説くべきなのだ。それは「人への限りない優しさ、命の尊さの表現」であり、人として最低限「持つべき心」なのだと思っている。
なにはともあれ、「子供を優しく抱きしめる」ことから私たちはこの国の教育の再生に向けた歩みを始めるべきではないかと考えている。