「本気」

きのう/きょう/あした


2005/12/06(火)

12/2-3の両日、アジア文化交流センター・東西研主催で行われた国際シンポジューム「19世紀中国語の諸相」は成功裏に幕を閉じることができた。
特に初日は使用言語を「中国語」と限定したにも関わらず、北海道、山梨、東京、松山等々からも含めて約70名の参加者があった。今このテーマは「旬」なのかも知れない。それを主催できたことを喜びとするものである。
ところで、今回は発表者、コメンテーターも時間厳守で極めて順調に日程を進めることができた。しかも、中身の濃い発表、コメント、討論であったと思う。
私も何十年かぶりで久しぶりに「本気」でコメントしたような気がする。
最近は、自分の発表はそれなりに力を入れているが、他人の発表は性根を入れて聞くことが少なくなっていたように思っている。身震いするような、そんな感動を覚えるような発表になかなかお目にかかれなくなっていたのだ。
それは自分の側の「謙虚」さの欠如や「堪え性のなさ」にも由来するのだが、でも、資料を丹念に調べ上げ、その結論にも非の打ち所がない論考であっても、それだけでは人に感動は与えられないのだ。
時枝誠記は「学者は自殺しない」(『国語学への道』)で次のようなことを述べている。
学問の至極の妙味は、スペキュレーションにあると、僕は思つてゐる。事実を山ほど集めて、そこから素晴らしい結論が出るだらうなんて期待するのは、学問の邪道さ。
地球が円いと考へた最初の人間は、やつぱり大変な思惑師だよ。最初の見込みさへ確実なら、事実は必ずあとからくつついて來るものさ。思惑をやる人間が不精なのぢやなくて、資料の上に安心して寝そべつてゐる人間の方が余程のんきだし、不精だよ。
学問がスペキュレーションである以上、その危険は、相場と同様に、免れない運命だ。しかし、それなればこそ、学問にもスリルが涌いて来るわけさ。スリルの無い学問なんて、考へただけでも、気が滅入つて来る。常夜の闇みたいなものだ。スリルを楽しまうとする限り、学者はなかなか自殺しないよ。
私はいつもこのことを念頭に置いているが、なかなかこれを実行するのは難しい。
ところが、今回の発表では思わず「本気」にさせられたものが幾つかあったのだ。それが私の今回の大きな收穫である。
若い学究が一つの大きな目標に向かって研鑽する姿は人を感動させるものである。かつて私も確かにそうであったはずである。「いつか、時枝のような国語学史、中国語学史、言語学史を書こう」と。もちろん、その夢は今も持ち続けてはいる。「もういっちょ頑張るか」そんな想いが沸々と涌いてきている。