魯迅

きのう/きょう/あした


2006/01/13(金)

僕が魯迅を読み始めたのは、大学の3年の時である。
その頃、大学は無期限ストに突入し(実はそれを学生大会で提案した時、まさか通るとは思ってはいなかった・・)、授業は行われない。そこで、「自主ゼミ」と称して仲間を集めて毎日(記録を見てみると、本当に毎日なのだ)、中国語の作品を読み続けていったのであるが、その時に取り上げたのが魯迅の『吶喊』だった。「自序」から辞書を引きまくりながら読んでいった。そのゼミは4年まで続いた。時には毛澤東の文芸講話や著作選も読んだが、中心は魯迅であった。その頃のノートが今も手元に残っている。僕には文学の素養はないことは分かっているし、中国語も第2外国語であるから、その力は自ずと知れている。今から見れば、間違いも多いが、それでも吶喊のほとんどを自分で訳したことは、やはり「青春」の一つ証であり、その後の自分の生き方にも大きな影響を与えていると思っている
子供が生まれたときにも、何の躊躇もなく「迅」と名付けた。子供は迷惑かも知れないが、「希望」を託したつもりである。
今日はその魯迅の研究家である北岡先生の最終講義が行われた。
この先生については、どの人も「凜とした」という言葉で語られるが、僕もそう思う。
先生とお会いしたのは、先生が福井大学に私の割愛願いを申し出来られた時が最初である。駅までお送りしたが、「なんとすがすがしい先生だろう」という感じは今も同じである。
最近、いろんな挨拶の中で、魯迅の「救救孩子」を引いている。→子供の通学路の安全を守る緊急集会
子供もすでに「人を食って」しまっているのかも知れないが、それでも、「まだ食っていない」子供も沢山いるはずだ。そこに「希望」を見いだすしかないだろう。それが「人を食ってしまった」大人の最低のつとめだから。
実は来月、吹田のある中学校で「故郷」の授業をすることになっている。
僕は魯迅の専門家でもないし、中学校のプロでもない。ただ、魯迅については特別な思い入れがあるし、故郷はやはり名作なのだ。子供たちにとって「希望」とは何か。そんなことを子供と一緒に考えてみたいと思っている。