無原則、場当たり的
2009/09/14(月)
この国では、色んな問題に対して、原則そのものでなくて、場当たり的、対症療法的に解決しようとする傾向が強い。
学力テスト結果公表を始めとする教育問題、格差の問題等々、当然、政治も同様だ。
堺市長選をめぐって、橋下と自民・公明・民主がバトルを繰り広げている。
相乗り批判の橋下は、相変わらずの「世間受け」「ミーハー向け」の過激な発言で相手を挑発すれば、自公民の政党は、「知事の独裁」「橋下には地方分権を語る資格なし」と応酬する。
どっちも、どっち。
「目くそ鼻くそを笑う」で、いずれも原則無しである。
今更、自公の彼らに「橋下に地方分権を語る資格なし」なんて言われたくない。
私が2月の日教組全国教研集会の講演の際に、橋下の市町村教育委員会への恫喝に対して「彼には今後、分権を語る資格なし」と批判した時、そのような内容よりも「日教組大会で教育委員が講演するとは何事だ」と、右翼を使って脅かしに来たり、私の教育委員再任を阻んだのは、まぎれもなく、今、橋下と対峙している政治家どもだったのだ。
「もしこの点について、議論しようというならばね、それは、あくまでも原則そのものに対してでなくちゃならん。そしてそのためにはね、原則の理論的根拠そのものを、検討してみなくてはならぬ。」(ポー「マリ・ロジェエの迷宮事件」)
これまでに何度も引用してきたこの言葉の意味をかみしめるべきである。