「己所不欲、勿施於人」
2005/04/21(木)
本日、関西大学アジア文化交流センターの開設を記念し、ハーバード大学燕京研究所所長の杜維明先生を招いての公開講演会が開かれた。
「文明の衝突」に対してのアンチテーゼとも言うべき「文明の対話」を主張するもので、その基本に「儒教倫理」を置くというものである。
その話を拝聴しながら、今の世界が置かれている状況を打破するには、ひょっとすると「これしかない」のかも知れないと思うと同時に、ここでも、実は「ものごとの本質は単純なもの」ということを改めて思い知った感じがした。
話の中心は、一言で言えば、孔子の「恕」(己所不欲、勿施於人)と孟子の「惻隠の情」ということだったように思う。
「対話」とは「自分の主張をすることではなく、相手の意見を聞くこと、そして、それによって自分の考えを反省すること」であり、つまりは、「相手との違いを認識した上で、相手を尊重すること」ということも心に残ったが、これらのことは、まさに金子みすずの「みんな違って、みんないい」と何ら変わることはない。「ものごとの本質は単純なもの」というのは、そういうことなのだ。
「相手を認め、相手を思いやること」これしかないのである。
「反日デモ」も同じことのように思う。
先日、あるページにも書き込んだのであるが、普段読むことは決してないY新聞のコラムでは、この事件を相変わらず「文明」や「品格」はては「愛国」で解き明かそうとしていた。
内村鑑三の「愛国論」「文明論」をよりどころにしながら、
「文明は蒸気にあらず、電気にあらず、憲法にあらず、科学にあらず、哲学にあらず、文学にあらず、演劇にあらず、美術にあらず、人の心の状態なり」と引き、日中いずれが「文明国」の名に値するか・・。
という調子である。
しかしながら、この国がどれほどの「文明国」だというのだろう。
「文明」に恥じる行為を行ったことへの、明確な謝罪もなく、ドイツとの戦後処理の違いを問われれば、「ドイツと日本では状況が異なる。向こうはナチスだ」と開き直る国が果たして「文明国」と呼べるとでもいうのだろうか。
南京での事件に対して、「当時南京に100万の人口はいなかった。30万だ。だから、100万虐殺はあり得ない。でっちあげだ」と歴史教科書のパンフに記す国が十分な「品格」をそなえた国だというのだろうか。数の問題だというのだろうか。過去の歴史を認めることが「自虐的」ということなのか。
なるほど「罪を償う思いで、日本政府はお金を寄付している」ということもあるだろう。しかしながら、罪を償う思いがあるなら、なにゆえ、一言「ごめん」と言えないのか。
この国が行ってきたことが実は、中国政府が外相会談で「中国政府従来没有作過任何対不起日本人民的事情」と開き直るのと変わりはないことを知るべきなのだ。
いずれにせよ、「相手の違いを認め合う」ことから始めなければ何の問題解決にはならないのだと思う。そんなことを今日の講演は私たちに教えてくれたように思う。